銃乱射

2008年1月16日 時事ニュース
■私は部屋に一人でいた。
物音がした気がして振り返ると黒っぽい服を着た男が包丁で襲いかかってきた。
私は手にしていた金属バットで戦おうとするが、なぜかとてつもなく重くて思うようにならない。。。。

そんな悪夢にうなされて目が覚めた。枕元の窓から見える空はうっすら白み始めていた。


■どうしてこんな夢をみたのか

原因を考えていたらある事件を思い出した。
長崎のスポーツクラブで起こった銃乱射事件。
殺人犯は、犯行後自殺した。
その為か一件落着した空気が報道に漂う。

しかし私は釈然としない。
『他人を殺しても自殺すればOK』という空気を感じるからだ。

命の大切さがちゅうぶらりんに感じてその不安感が夢にでたような気がする。
殺人はいけないという当たり前なこと、でもなぜそうなの?


■『どうして殺人してはいけないか』

という問いは
突き詰めれば『自分が殺されないため』という答えに辿り着く。しかしその理屈だと『自分が殺されても構わない人は殺人をしても構わない』ことが同時に成り立ってしまう。
自分の命が大切なら人殺しはだめで、大切じゃなければ人殺しはOKだなんて理屈は認めたくない。
理詰めで進める限り宙ぶらりんのままなのか。

ああ、それでわかった。
設問が適切ではなかったのだ。問うべきは『殺人をしてはいけないか』ではなく『命は大切なのか』だ。
前提が揺らいだから結論が揺らいだのだ。。



■『命は大切か』

では改めて問おう、『命は大切か』
命が大切な理由は一体なんなのか。

思えば自ら望んだわけでなく完全に受身で排泄されるように産み落とされた命。
そこに命が大切である理由は見当たらない。

一つしかないから?
ピンとこない。




きっともっと感覚的なことが答えだ。
命への愛情なんて理屈ではなく感覚的なものの上に成り立っているんだ。
命を慈しみ育んでくれる人がいた、そのことで理屈抜きに命は大切なんだと感じるのだろうか。


当たり前の日常で理由ナシに愛しいと思えてくるもの、
そういうものが『命』という定義なのか?

いやいや、弱ったぞ。


単純なものほど
あたしにとっては難しい

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